奢られるのが嫌いだった

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奢ってもらうことがとにかく苦手だった

潔癖的に嫌いだった。いざお会計の時にどんな顔をしたらいいのかわからない、財布を出すべきとか粘るなとかルールもよくわからない。そもそも奢られることがわかっている食事に行くこともはしたない気もして嫌だった。自分が貯金残高を見てニヤニヤするタイプだったのもあってか、金銭的な負担をかけることへのプレッシャーもすごかった。

そもそも学生のうちや社会人三年目くらいまでの間なら収入にたいした差もないはずで。それが女性だからとか学年が一つ下だからというだけで奢ってもらえることの意味もわからなかった。

マッチングアプリを始めた

社会人になってから五年ほど経ち、マッチングアプリを始めた。男性の年収帯がプロフィールとして閲覧でき、初回のデート代をどちらがどれくらい負担するかまで見られたりもする。30代の男性ともなるとさすがにわたしとの年収差も数万、数十万ではなくなってくる。奢ってもらうことへの申し訳なさは多少減ったものの、それでも候補に挙げてくれた三つのお店から一番高い価格帯に行きたいとは言えずにいた。

話は変わるがわたしはおいしいものに目がない。普段は落ち着いている、話しかけづらいと評されることも多いが、ご飯を食べる時はつい顔がほころぶ。「本当においしそうに食べるね」「見てるこっちまで幸せになる」と言われることも多い。

年収が私より数百万は上で、初回のデート代は全部払うという男性とディナーに行った時。はじめましてなのにひとり一万円を超える鉄板焼きのコースで、恐縮する気持ちもありながら向かった。メニューも鮑やらフォアグラやら、食材からして高級そうなものが並んでいる。とはいえ食べ始めるとおいしさにそんなことは気にならなくなり、一口ずつ幸せだなあと思いながら口に運んだ。たぶん顔もふにゃふにゃになっていたんだと思う。そうしていたら「そんなにおいしそうに食べてくれるんだ笑」「このお店にしてよかった、嬉しい」と言われた。奢ったこと、プロデュースしたことの対価として、私がおいしく食べることを受け取ってくれたのかと感じた。

奢ることでヒーローになる

当たり前に、というか意識しても止められない、おいしいものを食べて満足げな顔をし幸せだと言う、というただそれだけのことが対価になるのかと。そもそも「おいしそうに食べてくれる」という「くれる」の部分は本来ちょっとおかしい。彼が作っているわけではないし、なんなら隣で一緒に味わっているわけで。それでも新しい品が提供されるたび、私がどんな顔で食べどんな言葉で感動を表すのか、隣からじっと視線が注がれていた。

たしかに私も思い当たる節はあることに気づいた。後輩にランチを奢る時、友達にプレゼントを渡す時。喜んだ顔を見せてくれれば、金額がプラスになることはありえなくても、気持ちの収支は完全にプラスになる。むしろお金を出されてしまったら、喜びがわたしだけのものではなくなってしまうように感じる。

わたしのおすすめのお店に一緒に来てくれて、楽しい時間を過ごしてくれて、幸せそうに食べ切ってくれる。その全ての幸せをお金を払うことで自分がプロデュースしたような気分を味わえる。奢ることでヒーローになったような気持ちになれる。

学生のうちはお金はないけど時間がある、社会人になると時間はないけどお金がある、なんてよく聞くけど。たしかにリラックスして好きな人と過ごす時間が極端に減ったなと思う。お客様の幸せのために、ある意味ではお金のために一生懸命働く時間の比率がとにかく大きくなってしまった。それでもいつも自分がヒーローになれるとは限らない。同期や先輩後輩と常に比べられ、客先からの評判に気をつけながら、時には理不尽に叱られなければならないこともたくさんある。

そんな中で、好きな人のことを喜ばせるヒーローになるために奢っているのだとしたら。奢ることに喜びを感じる人もいるのだとしたら。そんな人の存在に気づけたから、奢られることが嫌いじゃなくなった。

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